ホーム
> 12月 2010
2010年12月29日水曜日
チャンスの神様の前髪をつかめ Part5 元ベンチャービジネス社長…大根田勝美さんの話 2010/5/7放送分
*「チャンスの神様の前髪をつかめ」5月7日放送の大根田勝美さんの話を要約中です。
*インタビュアーは●
自分が大きく飛躍できたのは、
自分の持っている力は大したことはないのだと
では、どうしたらいいのか
優秀な人の力を借りればいいのではないか
自分の限界を知った時が、自分の飛躍のジャンピングボードになった時ではないかと思う
チャンスの神が私の前には何回も現れてくれた
●ルーペルさんをパートナーへ迎えて、どんなことが可能になってきたのでしょうか
十年以上アメリカに住んでも、結局自分は日本人
英語ができるといっても、アメリカ人と同じように100%理解はできていないと思うし
それと私は恥ずかしがり屋で
いわゆるセールスマンタイプの人間ではなかった
誠心誠意、お客様に尽くして信頼を得て
自分の知識を相手に与えることによって
セールスするというスタイルのセールスマンだった
一方、彼(ルーペル)は非常に口が立つ
とにかく頭がいい
そして、人を惹きつける力を持っていた
●パートナーが持ってきた情報で製品化することもあったとか
1979年にアメリカに合弁会社を作った
大変な苦労をしたが
ルーペルは全く内視鏡に関係しないような新しい技術を聞いてきた
どう思うと言われ
面白いから誰かに会社を作ってもらって自分達はサポートをして
そして株をもらって、会社が大きくなった時に売却してキャピタルゲインを得ようと
それが私が資産を作る上で一番大きなものになった
全く内視鏡と関係ない、心臓分野のカテーテルとか
そういうものを探してくる情報網はすばらしいものがあった
●電子カルテの開発にも関連なさったとか
何か特色あるものをもっていかないと大きな会社には太刀打ち出来ない
そのときの副社長に
これからは手書きのカルテやデクテーションじゃなくて
内視鏡検査の途中でもどんどん情報をコンピューターに取り入れて
いつでもそれが取り出せる
そういう時代が絶対くるよと言われた
それじゃあどうしたらいいかということで
まずソフトに強い大学を見つけてきて
次にコンピューターの機械に強い会社に依頼して
イメージマネージメントシステムというものを開発した
それが医師に非常にうけた
こういう、なにか他の人にないもの、他の会社にないものを作り上げていかないと
何をやってもダメなんじゃないかと思う
*話しはパート6へと続きます。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月27日月曜日
チャンスの神様の前髪をつかめ Part4 元ベンチャービジネス社長…大根田勝美さんの話 2010/5/7放送分
*「チャンスの神様の前髪をつかめ」5月7日放送の大根田勝美さんの話を要約中です。
*インタビュアーは●
●仕事では成功していたが、会社での昇進のチャンスが大きなポイントになったとか
自分ではよい仕事をしている自信があったが
4年ほど経過しての人事評価で
同い年の大学出はみな主任になったが
自分はアメリカでこれだけ仕事をしていたのだが主任になれなかった
同い年で輸出部でインボイスを打っている方が主任になっても
自分はこれだけ跳び回って頑張っているのに主任になれなかったのは
やはり中学卒業
年功序列学歴主義の大きな会社では中卒は逆立ちしても駄目だとわかった
それでいくらやっても将来がないと感じて
生活もちゃんとしていたのだが
思い切って辞めてやろうと思った
これは本当に大きな決断で
当時、会社をやめる人間などいなかった
ところが駐在員でやめるなどありえないころで
ただ、決心したら飛び込むしかないと思い
私の場合はすべて失っても元々という
どん底から這い上がった人間の強さがあった
親から金をだしてもらって大学を出て、会社をやめたら親不孝になってしまう
私はどん底から這い上がってきたので
何も無くなっても、それは元々だから
そういうどん底の強みというのはあったと思う
●次はどうしたのか
会社辞めてもいいが、機械の販売は続けてくれないかと会社にいわれた
願ってもないことなので
セールスレップという、コミッション制のセールスを始めた
最初は10%もらっていたのが、8%となり
5年目の終わりには6%となり
自分の扱っていた販売地区も縮小され
せっかくここまで生活もよくなりうまくいっている時だったが
もうやめるしかなかった
低迷しているときに日本の競争相手の会社から誘いがあり
思い切って去ることにした
いいところまでいって収入もあったが
またゼロからの立ち上げとなった
妻には大変な心労をさせたと思う
●このころパートナーをみつけたと
先程も話したが、人間万事塞翁が馬
苦境に追い込まれると、それは新しい未来への好転でもあると思ったし
日本の会社と合弁会社を作って、内視鏡の開発、販売をおこなった
そのころにルーペルという非常に優秀な男が私の前に現れた
最初はセールスレップとして頑張ってもらったが
こういう男は滅多にいないと思い
自分のパートナーとして入ってほしい
肩書きは副社長だが、自分のパートナーとしてやってもらうからと話し
1975年の暮れに自分のパートナーとなってもらった
非常に優秀な男だった
自分がここまで来る過程でどれだけ彼に助けられたかわからない
今の資産を築き上げたのも、彼のおかげだと思う
(31:29)
*話しはパート5へと続きます。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月21日火曜日
チャンスの神様の前髪をつかめ Part3 元ベンチャービジネス社長…大根田勝美さんの話 2010/5/7放送分
*「チャンスの神様の前髪をつかめ」5月7日放送の大根田勝美さんの話を要約中です。
*インタビュアーは●
●チャンスの神様の前髪を意識し、チャンスを現実化し、胃カメラは東大と共同開発
●その際に若い時に胃の手術の誤診の経験を活かしたとか
私は人間万事塞翁が馬ということばがとても好きだ
苦労を与えられた時、苦境に陥ったときというのは
必ずまたいい方向に向かうチャンスのスタート時点だと思っている
定時制の高校3年のときに胃を悪くし医者へ行くと
胃潰瘍だから手術しろといわれて、胃をとってみたら
胃潰瘍じゃなくて、胃炎だったけど、一応とっておいたと言われ
これはひどいと感じて
それでいろいろな方法で専門書、文献、記事を読んで
胃、消化器系の解剖学的な知識などを覚えてしまった
それが、胃カメラ係に移ったときに有利に働いて
先生達と話していることがとても理解できた
自分の青春時代の一番大事なときに胃の手術をするなど
本当に大きなマイナスなのだが
それがプラスになってかえって来た
●その後ニューヨーク駐在になった
とにかく周りをみても
胃カメラのことを知り、英語ができるのは自分しかいないと思っていた
外国へ進出するなら自分しかいないと思うようになっていた
1964年に結婚して
新婚旅行に帰ってきて最初の出社日に
部長に呼ばれ、アメリカ行きを告げられた
内心はやったー!と思った
ついに自分の目的をがっと掴めた(夢という言葉は好きじゃない)
自分の努力が報いられた感動の一瞬だった
●アメリカではどんな仕事をされたのか
胃カメラはアメリカの医師にとって全くの新しいもの
いろいろな大事なアメリカの病院を回ってデモンストレーションして
機械を販売していったのだが
販売する前にアメリカの重要な医師達に胃カメラの知識をもってもらい
優れた点を理解してもらうことが大切だと考え
重要な先生に働きかけて広めていくことを仕事にしていた
それが初期の仕事だった
その後、ファイバースコープという、中を覗けるものができてからは
急速な進歩があって
駐在員時代はいったことない州がないくらい、本当にない、全部行ったのだが
一週間おきに日曜日にでて、土曜日に帰ってくるという出張をして
あらゆるところでデモンストレーション、セールスをしてきた
当時は消化器系の内視鏡の先生はアメリカにそれほどいたわけでなく
300人以下だった
彼らにとって内視鏡は新しい機械で
使い方の知識もなく
学会などで展示をしたときに、皆、寄ってきて機械を見てくれた
その時に興味ある先生から名前をいただいて
後にその病院を訪れてデモンストレーションをするという流れだった
既に利用している医師からの紹介もあった
デモンストレーションの際は、機械の操作だけでなく
胃袋、大腸、気管支などのアナトミーをよく知っていないとならないし
覗いて見える病変などの知識をもっていると
医師達はただのセールスマンだとは思ってくれない
この男からは何かが学べると
そう思った瞬間、セールスでは勝ちとなる
(25:52)
*Part3はここまで。4へと続きます。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月16日木曜日
チャンスの神様の前髪をつかめ Part2 元ベンチャービジネス社長…大根田勝美さんの話 2010/5/7放送分
*「チャンスの神様の前髪をつかめ」5月7日放送の大根田勝美さんの話を要約中です。
*インタビュアーは●
●英語の勉強法が尋常ではなかったと聞いているが
最初は会社の英会話教室に飛び込んだ
ちょっとぐらい英語できると思っていたが
まったくわからない
他の15人ぐらいはみな、なんかちゃんとしゃべっているようだった
これではいけない、キャッチアップするのも時間がかかるだろう
一人で頑張ってやろうと思って
何も無い貧乏生活だったので
今で言うところのプレーヤーを買って
ラジオを拡声器の代わりにして
当時のお金で5万円ぐらいを使った
一文無しの自分には本当にきつい、あちこちからようやく集めてきたお金だった
そういう苦労をして集めたお金で買ったので
とにかく最後までやり通して身につけないとおさまらない
それで朝晩めちゃくちゃ勉強した
夜学に行っていたが(高校は病気をしたこともあり6年かけて卒業していた)
東京に来てから産業能率大学に行っていた
自由が丘にあって、幡ヶ谷まで帰ってくるのに1時間ぐらいかかる
それで帰ってきてから11時頃にまた1時間勉強をして
そして、また、次の朝に勉強して
その日にならったことを全部書き取って、電車の中で暗記する
そういう毎日を一年間続けた
英語というのは相手があっての会話なので
生きた会話を覚えたかったので
立川空軍基地の渉外係に
「私が日本語を教えるので、英語を教えてくれるGIを紹介してほしい」
と手紙を書いた
まさかと思ったが、基地へ来なさいと返信
基地へ行ったら、ものすごく背の高いGIを紹介された
そのGIから週に一度生きた会話を教わった
一年間やって、結構英語ができるようになった
それで一年前の会社の英会話教室に戻って
自分の英語力を見せびらかしてやるんだぞと意気込んで飛び込んだ
そのころ、自分は修理係から国内の医療機械、胃カメラの営業に回されていて
英文のカタログも重要なところを丸暗記して乗り込むことも忘れなかった
教室に行って、バーク先生との会話の中で丸暗記した内容をスラスラ話して
一応皆をあっと言わせたと思う
そこには人事課の人間も来ていた
当時は輸出部の人間しか英語ができなかった
海外進出をしていかなくてはならない時代に技術も英語もできる人間は大事で
自分には必ずチャンスはあると思っていた
だから英会話教室は自分をアピールするにはとてもいいところだと思った
(20:11)
*Part2はここまで。3へと続きます。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月15日水曜日
チャンスの神様の前髪をつかめ 元ベンチャービジネス社長…大根田勝美さんの話 2010/5/7放送分
*少し前になりますが、5月7日放送の大根田勝美さんの話を要約していきます。
大根田さんは、中卒で100億円の資産を築いた組立工として知られた方です。
*インタビュアーは●
●いつもはニューヨーク住まい、時々日本へ帰るとのこと。
ちょいちょい帰ってきている。
冬の寒いときは東京、入梅前にアメリカに帰る。秋が来たら、また東京。
そういう二重生活。
●ニューヨークには広い邸宅、日本庭園をお持ちだとか
20年前に土地を購入
デザインは自分で
外側はイタリア人、中は日本人の大工さんにつくってもらった
日本人の庭師、とてもいい人に庭を作ってもらった
趣味で有機野菜作りをやっていて
小松菜、水菜、ししとう、ナス等
夏の間は青野菜は買わない生活をしている
●4年前に仕事を退かれたのは奥様の病気が原因だとか
ある日、帰宅すると妻が両膝を台所のカウンターにつきながら
曲がった体でようやく包丁をことんことんとおろしている姿をみて
はっとした
これはこのままではいけないと思った
会社を辞めて家に入り、妻のサポートをすることが大切だと思った
ピタリとやめる決心をした
それまではめちゃくちゃな企業戦士が一瞬にして早変わりした
●それで奥様は
すっかり元気になって、曲がっていた体も真っ直ぐになった
今ではピンピンと動いている
●それまで苦労をかけたと
仕事で家を留守にすることがとても多かった
酒もすきでガンガン飲んでいた
妻の心労は相当なものだったと思う
当時はめちゃくちゃ仕事をしていたので
立ち止まって振り返ることができなかった
●半生を綴った本を出版された。苦労されたことを振り返って今どう感じるか。
私は少年時代、町一番の貧乏人の家庭で育った
学校に弁当をもっていくこともできない辛い思いをずっと重ねてきた
中学卒業し、金を稼がねばならず、カメラの組立工として社会人をスタート
大企業では中卒には将来はない
将来はないというと語弊あるが、偉くはなれない
東京に転勤となり、修理の仕事をしているときに
1960年代は日本の経済復興の真っ只中
海外への輸出も増えるような時代
輸出品に対するサービスが求められる
海外からいろいろな人が修理課へ研修に来ていた
修理を教える際、輸出部から大学出の方が来て、通訳をしてくれた
それが、ジェラシー、面白くなかった
ふと考えてみたら、もし自分が英語ができたらこの人はいらないなと
自分は機械のことは知っている
自分にとても大きな価値がうまれると気がついた
その時、中学生の時に教頭先生が話してくれた「チャンスの神」という
言葉が頭に持ち上がってきた
チャンスの神は前髪がふさふさで、まっすぐにお前たちに向かってくるが
通りすぎてから捕まえようとしても後頭部はツルツルで
すべって捕まえることはできないと
これこそまさに、今、自分にまさにチャンスの神が向かってきていると思って
それで英語の勉強を一生懸命やって
マスターとはいえないが、ちょっとした会話は普通に話せるようになった
*まずはここまで。次回は尋常でなかった大根田さんの英語の勉強法の話に続きます。
*大根田さんは、元、郷ひろみの義理の父でもある?ようです。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月14日火曜日
今後の要約予定
今後の要約予定です。
2010/5/7放送の元ベンチャービジネス社長…大根田勝美さん「チャンスの神様の前髪をつかめ」
2010/8/28放送の半農半X研究所…塩見直紀さん「今なぜ“半農半X”〜農業プラスαという生き方」
2010/10/21放送の冒険家…風間深志さん「バイクを友に地球を旅する」
録音ストックから少しづつ文字に要約していこうと思います。
長時間の要約に耐える(?)ためにどうしても
自分好みの番組に偏ってしまいます。。。。
2010/5/7放送の元ベンチャービジネス社長…大根田勝美さん「チャンスの神様の前髪をつかめ」
2010/8/28放送の半農半X研究所…塩見直紀さん「今なぜ“半農半X”〜農業プラスαという生き方」
2010/10/21放送の冒険家…風間深志さん「バイクを友に地球を旅する」
録音ストックから少しづつ文字に要約していこうと思います。
長時間の要約に耐える(?)ためにどうしても
自分好みの番組に偏ってしまいます。。。。
ラベル:
ラジオじぃのつぶやき
2010年12月7日火曜日
リヤカーマンが教える冒険スピリットPart 6 冒険家 永瀬忠志さん 2010年11月12日番組放送分
*リヤカーマンこと永瀬忠志さんのお話を要約&分割アップロード中です。
高校の非常勤講師になって
授業のはじめに生徒の名前を覚えなければならない
生徒の名前を呼んで、自分の自己紹介もする
永瀬忠志といいますと
こんなことをしてきたと旅の話しをする
その中で生徒に何かを伝えようとしたら
思っているだけでは伝わらない
何か言葉にしなくてはならない
冒険スピリットの10か条を自分で考えて
授業もしないといけないので
授業の冒頭で少しづつ伝えている
<冒険スピリット10か条>
1.立ち止まっていても何も動かない
サハラ砂漠を進んでいたとき、暑いので水を飲もうと立ち止まったとき
作業に夢中になっていたのに、ふと我にかえることがある
周りには誰もいないのに気がつく
俺はいったいこんなところで何をしているのだとふと考え始める
サハラ砂漠を歩いて縦断することに何の意味があるのかと
何がしたいのか頭の中で探そうとするが答えがでてこない
答えを探すうちに頭の中が真っ白になってしまう
その中でひとつだけはっきりわかったのは
今ここで立ち止まっていても何も動かないということ
2.自分にできることを、小さいことでも少しづつやってみる
アフリカを一年歩いたときに
なかなか前に進まない
先は遥かに長い
歩くのが嫌になる 先のことを考えるのが嫌になる
ただ、10日間なら歩く自信がある
400キロ先の街を目指して歩いて行く
10日でそこまで着いたら、気持ちを切り替えて
よし、あと400キロ歩こうと
先のことを考えると自分にはできないと思えてしまうが
自分にできる小さい、できることを少しづつ、積み重ねていけば
できないと思っていることでも、いつか出来るのではないかと思う
3.先が見えないと不安だが、だからこそ面白い
30歳の時に教員採用試験をうけて正式な教諭になったことがある
その時に先がずっとみえてしまった
旅は先が見えないから面白い
先が見える旅は出発前からわくわくしない
不安で仕方がないが期待感もある
そういう旅のほうが面白い
結局、先の見えない人生を選んでしまって
また、旅に出てしまった
4.一瞬の大きな喜びが明日への力になる
歩いているときは辞めたい、帰りたいとおもっている時間がとても長い
残りの1%ぐらい、ここまで来てよかったと思うときがある
途中でやめていたら今はなかったと
その時の喜びが大きいから、よしまた歩くぞという気持ちになる
砂漠で星空に包まれているとき
星はいくらみていても飽きない
何万年も昔から自分は生きていたかのような不思議な気持ちになってくる
時間にしたら短いが
来てよかった 生きていてよかった
その時の思いが大きいとまた歩いて行こう、生きていこうという
明日への力になると思う
5.決断のとき心の比重の思いほうへいけ
どっちへ行くか決めなければならないとき自分は
心の思いが強いほうへ行く
そうすれば悔いが残らない
6.自然が自分でも知らなかった自分を教えてくれる
7.今日何かいいことがあるかもしれないと信じて朝の一歩を踏み出せ
そう思わないと朝の一歩が踏み出せない
何か今日悪い、最悪のことが起こると思うと一歩が踏み出せない
よっしゃと心を奮い立たせて一歩を踏み出す
8.耐えて耐えて悲しくなっても耐えていけ
これだけ耐えても何もいいことがないと思うとき
母親の顔が心に浮かぶ
自分が28歳の時に亡くなったが
母の顔が雲の中に浮かんできて
何か語りかけている気がする
母が口ぐせのようにいっていた
またいいことがあるからと
それを思い出す
お母さん、またいいことあるのかと問いかけると
ああ、いいことあるからと
母親と会話をしながら歩いているようなときもある
自分の中で何かを信じていなければこんな旅はできない
9.ひとつのことをやり遂げれば新しい目標がみえてくる
ひとつのことをやらなければ、次、何をしたらよいのかわからない
ひとつのことができたら、次もできるかもしれない
次の目標がみえてくる
それができたらまた、次
たとえ失敗してもやり直せばいいという思いを持っている
10.野で食べ、野に宿り、野を歩く野人になれ
どこででも生きていける人になってほしいという思いを込めた
生徒はどう思ってきているのかわからないが
この先10年、20年経ったとき
変なことをいっているおじさんがいたなと
思い出してくれたら、それでいいと思う
今、54歳
自分の中ではいつまでも歩きたい
人はいつか必ず歩けなくなるときがくる
その時がいつくるかは分からないが
その時まで歩いていれたら幸せだと思う
歩けなくなるまで歩いていたいと思う
*ラジオじぃは永瀬さんの言葉に勇気をもらいました。
心が折れそうになっているときにこの話しを聞けて本当によかった。
今回で永瀬さんのお話は完結です。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月5日日曜日
リヤカーマンが教える冒険スピリットPart 5 冒険家 永瀬忠志さん 2010年11月12日番組放送分
*リヤカーマンこと永瀬忠志さんのお話を要約&分割アップロード中です。
2度目のアフリカを歩いていたときに
40.7度ぐらいの高熱がでた
ちょっと村にリヤカーを置かせてもらって
街までトラックに乗って医者に診てもらったことがある
マラリヤだった
治療してもらって10日後回復
再びその村から旅を続けたことがある
誰もいない砂漠、サバンナを一人
さびしいことも
旅が長くなればなるほど寂しさも募ってくる
サハラ砂漠を歩いていたときも
一日歩き終わって後は寝るだけのくつろぎの時間
しかし、いつまでもこれは続かない
一晩眠ったらまた朝が来る
朝がくるなぁと思いながら眠りにつく
朝、起きたら、また朝が来てしまったと
仕方がないから起きて、朝食をたべて片づけをして出発をする
歩き始めたら悲しくて仕方がない
何が悲しいのか、今ここにいることが悲しい
こんな旅をしていることが悲しい
構わず泣く
泣きながら歩いていると
2,3時間泣きっぱなしでいると自然と気持ちが静まってきて
また、作業に熱中
あっちのほうが砂が硬そうだと作業に熱中している
我慢して我慢して歩いている中で
砂嵐がなったときに
風でいろいろなことが起きてくる
我慢して我慢して歩いて行く
そのうち我慢しきれなくなる
我慢の限界を越えてしまうことがある
例えば先程見てもらった板を砂の上に敷いて、少しづつ前に引っ張って進んでいるときに
風で板がカーンと自分の足の骨、向こう脛にあたったときに
痛くて痛くて
我慢に我慢して進んでいるのに
そんなときはもう我慢できない
風に向かってコノヤロウ、いい加減にしろと
2、3分風を全力で怒っていると
また、自然と心が静まってくる
仕方が無いのでリヤカーのところに帰って
板を拾いあげて
また、少しずつ前に進んでいく
旅の途上で
自分でも知らない自分に出会う楽しみを見つけるようになった
それでやめられなくなった
*パート5はここまで。6へと続きます。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月3日金曜日
リヤカーマンが教える冒険スピリットPart 4 冒険家 永瀬忠志さん 2010年11月12日番組放送分
*リヤカーマンこと永瀬忠志さんのお話を要約&分割アップロード中です。
今度は南米。
46歳から47歳にかけて南アメリカ大陸縦断という計画を立てて
一万キロを歩く計画で行ったのだが
途中、ブラジルのアマゾンへ行ったときに
現地住民からこの先にジャガーがいるとさんざん警告を受けた
この旅に出るとき、二人目の子供が産まれていた
生後11ヶ月でこの旅に出発していた
この先ジャガーがいる
次の街まで580キロ離れている
船で移動したほうがいいとだいぶ警告を受けた
自分の中で気持ちが揺れた
行こうか、止めようか
結局、ジャガーの顔と生後11ヶ月の幼子の顔が10分毎に交互に浮かんでくるような
迷ったのだが
ひとりで歩くこともできない子どもが自分を待っていると思うと
歩くという決断ができなくて
結局、船に乗って次の街まで移動した
旅が終わって、結局8800キロを266日かかって歩いたのだが
旅が終わってから、あそこを歩かなかったことが非常に悔いとして残った
それから三年後、子供も三歳になったし、もういいかなと思い
アマゾンのジャガーがいるという場所を再び歩きに行った
その時に先ほど紹介した大きな音のでるフォンを持っていった
ジャガー避けとして使った
やはり歩いているとジャガーの気配があった
歩いているときすぐ横の草がガサガサと音をたてる
小さい動物だと小さい音なのだが
たまに大きなガサガサ!という音がしてきた
何か大きな動物がいるなと
だけど草や木の影でよく見えない
10メートル先ぐらいでガサガサと大きな音がしたのだが
何がいるのかわからない
咄嗟にそちらに向けて吠えた フォ!フォ!(ゴリラっぽく)
5回ぐらい吠えて
なんだろうと思いながら通り過ぎていく
ある時、ガサガサという所を通りすぎて
300メートルほど離れて後ろを振り向いたら
ガサガサと音がしたところに黒い影があった
10秒ぐらいしたらその影が立ち上がって
4本の足で道を横切り森の中に入っていった
黒い影にしか見えなかったが
ジャガーにみえた
今でもあれはジャガーだったと思っている
ジャガーの居場所を通りすぎて反対方向へ進むので良かったが
もしこれから行こうとする先に黒い影が見えたら嫌だけれど
*南米の話しはここまで。まだまだ続きます。
ラベル:
明日への言葉・心の時代
2010年12月2日木曜日
リヤカーマンが教える冒険スピリットPart 3 冒険家 永瀬忠志さん 2010年11月12日番組放送分
*リヤカーマンこと永瀬忠志さんのお話を要約&分割アップロード中です。
それで結局大学卒業後も就職をせず、世界を歩いてみたいと思っていた
大学3年、4年はアルバイトに専念して70万円程度を貯めた
それを使って、大学卒業後の22歳のときにオーストラリア大陸徒歩横断を計画
初めて海外を旅した
オーストラリアは4200キロぐらい歩いて旅した
途中の半砂漠地帯では一番暑いときは54度ぐらいまで気温が上昇
顔を背けるような熱風が吹いてきて
体の力が抜けていって歩けない
体を冷やそうとして水筒の水をかぶったら、お湯になっていて、全然涼しくなかった
こんな旅二度としたくない、これが最後だと
旅が終わったら楽しい人生送りたいなと思いながらオーストラリアを歩いていた
目的地の100キロ手前に来たとき
この旅が明日、明後日には終わってしまうのだなと
心境が変化してきて
この旅が終わるのはうれしいけれど、旅が終わってしまう寂しい気持ちが湧いてきた
半分半分の複雑な気持ちで目的地についた
100日間の旅だった
それから子供の頃から憧れだったアフリカも歩けるかもしれないと思うようになって
アフリカ行きの準備を始めた
またアルバイトして貯金をして、26歳の時に初めてアフリカに行った
1年間ぐらい歩く計画、ざっと12000キロ
ところが6700キロぐらいいったところで
ナイジェリアのカノという街についた時に
旅をともにしていたリヤカーを盗まれてしまった
カノについた時に安いホテルを探そうと思い
リヤカーを道端に置いて走って探しに行った
引換してみたら、リヤカーが荷物ごと消えていた
あるべきはずのリヤカーがないのをはっきりと確認したとき
その瞬間、「やったー!」と嬉しさがこみ上げて来た
明日から歩かなくてもいいというのが嬉しくて
これで旅は終わった、日本に帰れると
旅を始めて2日目ごろから旅を辞める理由をずっと探していた
理由を思いつかないから、一晩寝て、歩いているうちに
カノまで216日、約7ヶ月かかってついたのだが
リヤカーがなくなって、これで辞める理由ができたと
これでやめられると、嬉しさがこみ上げて来た
日本人を探し、めぐり合い、お金を借りて日本に帰ることにした。
帰る前にもう一度、最後にリヤカーをおいた場所に行った
やっぱり何もなかった
その場に立っていると、そこまでの道のりの出来事を次々に思い出して
もう一度、この旅をやり直すぞと
第一歩から歩き出そうと強く思ってしまった
盗まれた街からでなく、旅をやり直そうと思った
日本に帰り、6年後、33歳のとき再びアフリカを第一歩から歩く旅をやり直した
その時使ったリヤカーが先ほど紹介した隣の部屋の田吾作3号
2回目は途中リヤカーを盗まれることなく、376日でケニアから赤道地帯を横断
サハラ砂漠を縦断して、最後はフランスのパリまで
約1万1100キロを歩いた
*まだまだ話しは続きます。次回は南米の旅へ。
(31:58まで)
ラベル:
明日への言葉・心の時代
登録:
投稿 (Atom)